ネチカ89
「遊び」と「仕事」についての考え方もずいぶん変わって来て、最近は「アリとキリギリスの寓話」もその役割を終えたんじゃないかなと思ったりします。
この寓話を最初に聞かされた子供の頃は「遊んでばかりじゃいけないことはわかったけど、では遊ぶように楽しく仕事をするのはどうだろう?」と思ったものです。現在では「遊ぶように仕事をする」ことを実践し実現している人もいますし、それは憧れの対象でもあります。大変に難しいことではありますが。
逆に「苦しい仕事ほど尊い」という考え方の根拠はなんだろうなと、考えたりします。
言わば社会はもっと楽になる為に発展して来たのに、苦しいことを尊ぶとは。宗教的な道徳観がその起源であろうとは推測されますが、それを受け入れてしまうのは何故だろうと。
ネチカ87
今はこういう言葉が溢れかえっているので、無視はしないけれどもあんまり重く受け止める必要もないですよね。
ただ最近、テレビや新聞、雑誌等の大手メディアがネットの情報や意見を大きく採りあげるようになって来ると、妙な保証が与えられるような感じがして、アレは少し怖いなと思ったりします。
ちょっと前まではネットの中で流通しているぶんには「正体不明の意見なんだから話半分」という軽さがあったのですが、大手メディアによる保証と、その反映としてネット発情報の無条件な格上げという現象が急激に進んでいて、どこかで暴走しないかなと。
まあ、どこからの情報や意見でも、基本は「正体が明らか」かどうかは気にしておくというワンクッション。自身に何か降り掛かって来た時も、とりあえず落ち込む前にワンクッション。あわてないあわてない。
ネチカ86
自分のキャラクターから逃げたいなと、たまに思ったりします。
意識して作っているわけではなくとも、社会生活をしていれば自然と「キャラ」というか「役回り」とか「立場」みたいなものが出来上がって来ますし、それに無頓着でもいられません。
キャラというのは自分で作ったの半分、人から求められてそうなったの半分といった微妙な所で成立しているものでしょう。とはいえ本来の自分自身とはちょっと違う、社会生活の為の顔。
この顔をいきなり捨ててしまうと大事になりそうなので、上手く輪郭をぼかすことが出来れば少しは楽になりそうです。
でもどうすればよいのか、どの方法がよいのか、見つけるのはなかなか難しいのですが。
ネチカ85
いきなり辛辣ですが、コレは人に言ってるのではなくて自分に向けてですね。
自分の正当性を主張する時に無意識に自分の考えが多数派である事を前提にしてた事に気付いて、ちょっと恥ずかしくなったりした時に、この言葉を自分の中の猫に言わせます。
多数派と思い込んで、それに凝り固まってはいけないなと。所詮ただの石だとしても。
ネチカ84
なんだかんだ言ってノウハウの話って皆んな好きですよね、私も好きです。
でもノウハウは洋服みたいに自分の身の丈に合ったもので、且つ似合ってないと役に立たない事が多いです。というかどんなノウハウも自分に合わせて多少の変更を加えないと、そのまま使ってもダメだったりします。
「どんな人でも使えなきゃノウハウじゃない」という意見もありそうですが、誰にでも出来るノウハウじゃそもそも有難くないという…。
落語には『時うどん(そば)』『阿弥陀池』『青菜』など、粋で格好良い事を真似ようとして失敗する人の噺が結構あります。ノウハウって何かの真似をする方法なので、その域を出ないのは当然なのですが、実は「真似する」って楽しいですよね。
ネチカ82
コレはコミュニケーションの緊張緩和における一種のレイズみたいな態度と言えるかもしれません。
「そんなこと無いですよぉ」と言われた時の嘘っぽさを逆手にとっているわけですが、嘘とも本気ともつかない、微妙に混合した意味を含んでいます。
こういう言葉のやり取りにおけるちょっとした遊びって楽しいですが、相手を選ぶので親しい間柄じゃないと出来ないですね。
ただし、猫の場合そのような複雑なコミュニケーション等なく、感情表現はどストレートです。
絵にあるような状態は確実にヤバいので、すぐに相手をして差し上げましょう。
ネチカ81
あんまり考え込むと変になっちゃいますからね。
この言葉に「合わないドライバー」と「ネジ」を追加して組み替えると、別の意味の言葉になるようでいて大意は同じものが出来ます。
ちなみに英語の有名なことわざに「勉強ばかりさせて遊ばせないと子供はだめになる(All work and no play makes Jack a dull boy)」というのがあります。映画『シャイニング』では、これをもじった言葉は重要な場面で登場したりしました。