ネチカ158
問題には「ある事柄から解答の部分を削って作った問題」と「正しい答えのない、問いかけとしての問題」の二つの種類があります。自分の存在を「あるべきようになれた(もしくはなれなかった)」と思うか「なんだかわからないけどこうなった」とするかでずいぶん違いますね。
前者は肯定と否定の二種類の答えがあり、後者は全てが肯定されます。
いずれにせよその答えを出すのは自分であるというのがポイントです。
ネチカ155
映画の「祝い」や「宴」など晴れがましい場面はその後の崩壊や死を予感させるものです(逆に「祭り」は再生を象徴していたりします)。
ベタな例だと兵士や消防士が結婚したりするとまあそれは死亡フラグですし、それが医者や弁護士だと家庭崩壊フラグだったりします。
映画『タイタニック』(以後ネタバレあり)では船の舳先で愛を語り、喜びの宴はさようならを告げる宴へと変貌し、別れの音楽と共に人々は生を求めて空高く昇る船尾をよじ上っていきます。船は結局沈んでしまい、主人公のジャックとローズは海に投げ出されてしまいます。海は星で埋め尽くされており(それは実際は漂流する人と瓦礫ですが)、まるで黄泉の世界のようです。さて冷たい海から生還するという事は、天国から堕ちてしまう事であり、宝石を捨てるという事は星を空に帰すという事だったのかもしれません。
ネチカ154
「跳び上がる」という言葉と行動には無意識の状態が含まれているような不思議なニュアンスがあります。「跳ぶ」というと、まあその意志でもって確実に「跳ぶ」、つまり跳躍しているわけですが、「跳び上がる」は〝跳ぶ〟に〝上がる〟と、なんだか同じ事を念押ししてるんですが、なぜかはっきりとした意志を感じませんね。
ちなみに「跳ぶ」ことは年をとるとなかなか出来なくなりますが、「跳び上がる」はジジババになっても出来ます。というかしてしまったりして、死期が早まったりします。
ネチカ153
それぐらいが可愛げがあって良いんではないかなと。
自分の中にある可愛らしくもミミッチイ部分があるからこそ、逆に太っ腹なこともたまには出来るのであると、思われるのであります。
スモール・アスホールはいけませんよ。それは推奨致しません。それから狡辛いのも良くありません。
どういう違いがあるかといいますと「ミミッチイこと言ってんじゃないよ!もっとドーンといけ!ドーンと!」などという言葉を仲間同士で発した場合、これは如実に「やせ我慢」なワケですね。断言はできないけどそう思うわけです。
そこからすると「ケツメドの小さい」とか「狡っ辛い」とかはコソコソした感じがする分、さらにスケールが小さい感じが致します。個人的感想です。
まっ、日本語ってニュアンスが色々あって難しいですね。
ネチカ152
全ての出来事は常に「つづき」なんだなと思います。だから「さようなら」じゃなくてこの言葉が良いんじゃないかな。
ネチカ151
本当は声を大にして言いたいですが、表立っては言えない事のひとつでもあります。
今の社会はいったい誰のせいでこのような結果に至ったかについて徹底的にこだわるようになっていますので、このようなコトを公の場でうっかり言ってしまうと、実際に燃やされてしまう可能性があるのです。
ネチカ150
もう別の基準で世の中を評価しても良い時代が来ているのだけれど、適切な表現が見つかっていないというのが正直な所なんじゃないかなと思います。
というよりも、言葉でなにがしかの指標を表すような世界観は終わっちゃってるのかもしれません。
ネチカ149
追い詰められちゃってる猫ちゃんはもう、ちょっと近寄るだけで「シャァァァッ! カァァァァッ!」っとなってしまい、なかなか残念な状態だったりするのですが、人間も余裕が無い時は似たような状態ですね。
過去の自分を振り返ると、残念だったあんなコトやこんなコトなどを思い出し、穴があったら入りたい所存です。