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ネチカ 〜野良学的秩序によって証明された〜

世間をゴロニャンと斬りまくる、ネコの哲学。




ネチカ86

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自分のキャラクターから逃げたいなと、たまに思ったりします。
意識して作っているわけではなくとも、社会生活をしていれば自然と「キャラ」というか「役回り」とか「立場」みたいなものが出来上がって来ますし、それに無頓着でもいられません。
キャラというのは自分で作ったの半分、人から求められてそうなったの半分といった微妙な所で成立しているものでしょう。とはいえ本来の自分自身とはちょっと違う、社会生活の為の顔。
この顔をいきなり捨ててしまうと大事になりそうなので、上手く輪郭をぼかすことが出来れば少しは楽になりそうです。
でもどうすればよいのか、どの方法がよいのか、見つけるのはなかなか難しいのですが。

ネチカ85

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いきなり辛辣ですが、コレは人に言ってるのではなくて自分に向けてですね。
自分の正当性を主張する時に無意識に自分の考えが多数派である事を前提にしてた事に気付いて、ちょっと恥ずかしくなったりした時に、この言葉を自分の中の猫に言わせます。
多数派と思い込んで、それに凝り固まってはいけないなと。所詮ただの石だとしても。

ネチカ84

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なんだかんだ言ってノウハウの話って皆んな好きですよね、私も好きです。
でもノウハウは洋服みたいに自分の身の丈に合ったもので、且つ似合ってないと役に立たない事が多いです。というかどんなノウハウも自分に合わせて多少の変更を加えないと、そのまま使ってもダメだったりします。
「どんな人でも使えなきゃノウハウじゃない」という意見もありそうですが、誰にでも出来るノウハウじゃそもそも有難くないという…。
落語には『時うどん(そば)』『阿弥陀池』『青菜』など、粋で格好良い事を真似ようとして失敗する人の噺が結構あります。ノウハウって何かの真似をする方法なので、その域を出ないのは当然なのですが、実は「真似する」って楽しいですよね。

ネチカ83

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「自己同一性=アイデンティティー」って、そんなに重要なものなのかな? と思ったりします。
「過去の私」と「現在の私」なんて、どう考えたって一緒じゃないですし、時とともに考え方はガラッと変わってしまいます。「未来の私」だって、いったいどんな考え方になっているやら想像もつきません。
「私はこう思う」というのも、子供の頃から親や他人を見たり、真似したり、影響されたり、色々な経験をする中でそれらが混ざり合って出来上がってくるのでしょう。
元々ピュアではない色々なものの混合で出来ている「私」であるのならば、そんなにこだわってもしょうがないんじゃないかな、と。

ネチカ82

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コレはコミュニケーションの緊張緩和における一種のレイズみたいな態度と言えるかもしれません。
「そんなこと無いですよぉ」と言われた時の嘘っぽさを逆手にとっているわけですが、嘘とも本気ともつかない、微妙に混合した意味を含んでいます。
こういう言葉のやり取りにおけるちょっとした遊びって楽しいですが、相手を選ぶので親しい間柄じゃないと出来ないですね。
ただし、猫の場合そのような複雑なコミュニケーション等なく、感情表現はどストレートです。
絵にあるような状態は確実にヤバいので、すぐに相手をして差し上げましょう。

ネチカ81

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あんまり考え込むと変になっちゃいますからね。
この言葉に「合わないドライバー」と「ネジ」を追加して組み替えると、別の意味の言葉になるようでいて大意は同じものが出来ます。
ちなみに英語の有名なことわざに「勉強ばかりさせて遊ばせないと子供はだめになる(All work and no play makes Jack a dull boy)」というのがあります。映画『シャイニング』では、これをもじった言葉は重要な場面で登場したりしました。

ネチカ80

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「何をしようか? 何がワクワクするか?」という事を常によく考えておくのは大事だなと思います。
放っておくと「しなければならない事、果たさなければならない義務」で頭が一杯になってしまい、気が滅入ってしまいますから。

 

ネチカ79

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私たちは日々、起こった出来事とその意味を考えながら生きています。「何故こんな出来事が起こったんだろう?」「私(orあいつ)はどうしてこんなコトをしたんだろう?」などなど。出来事と意味を結びつけようとすると、あれこれ悩んでしまうことも多いですね。
たまに猫も、こちらを見て「なあぜ?」なんて顔をする(オモチャを隠された時とか)ので「出来事と意味」という認識があったりするんじゃないかと思ったりします。
ある哲学者は常に更新される現在の直線的な時間とは区別される、過去と未来に引き裂かれた別の時間を「出来事=意味」は形成すると考えたりしました。面白いですが、ややこしくてかなり難解な哲学です。
かように「出来事」と「意味」をどのように扱うかはなかなか厄介な問題です。いっその事「出来事に意味なんてない」とバッサリ切り捨てると「過去も未来もない現在をひたすら生きる」、つまり「到来するのではない、自ら起こす出来事と、自ら生み出す意味」となり、能動的でキッパリした生き方が出来そうな気がしてきます。

ネチカ78

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お前は確実に覚えていやがるよね、その態度。ってヤツです。
コミュニケーションの中でもヒジョーに高度なテクニック。これをやられると大抵「ぐっ…」となるか、半笑いで「しょうがねぇなぁ…」となるかです。
この嘘ついているのが見え見えの態度、つまり逆の意味を同時に伝えるという技については、同じ技を返すのがよろしいかと思われます。
つまり「ばっ、バッカじゃないのォ」です。

ネチカ77

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フロイトの説による「子供は象徴的に糞便を贈り物でありお金であるとする評価をもち続ける」というリビドー関係の話は、私にはイマイチよく理解できていないのですが、ウンチは自分の意思ではなかなかコントロールする事がままならない、自分がこさえた生産物だとはいえます。
こんな生産物でも「食べた物や体調によって毎日違うものだなぁ」というのは、自分のについてもそうですし、猫のトイレを始末する時にもよく思ったものです。
我が家の猫はウンチをした後、興奮してタタタッと走り回ったりグルルっと鳴き、なだめると大抵〝フン〟と鼻を鳴らしていました。
「お前にもいっぱしに〝リビドー〟あんのかい?」と思ったものです。